本書は、筆者が運営している精神科医を育成する組織において、これがないと医学やより広い社会の中で精神科の存在意義がなくなるという根幹となる、精神療法の基本を若い医師にどう身に着けてもらうかという課題から始まった、TPAR(2015-)という営みの一部を公開したものです。
 このように書くと、読まれた方は不安に思われるのではないでしょうか。精神科医や公認心理師のように、人のこころの危機を支援する専門職において、これまでその研修はどうなっていたのですか?とご指摘を受けてもおかしくありません。ましてや、TPAR を世に問う!などと宣伝したとしたら、じゃあ、他の全国の精神医学・臨床心理学教室では、こうしたことを行 っていないのですか?と皆様をますます不安にさせてしまうのではないかと思います。
 精神科医に限らず、さらには医師などの支援職に限らず、専門職が専門性を身に着けるうえでの、経験者から初心者への技術の伝達は、トレーニング、ラーニング、スーパービジョン、教育、研修などと呼ばれてきました。トレーニングやスーパービジョンという営みにまつわって、どの分野の専門職でも、経験者と初心者、初心者が対応しているクライエント(患者、サ ービス業で言えば顧客)、初心者が働いている組織、経験者と初心者が所属している専門職集団(学会、資格認定協会など)があり、分野を超えて共通の相互関係性が生じます。
 しかし精神医学においては、それぞれの関係性が非常に複雑になり、それらをすべての関係者が認識していること(インフォームドであること)が重要になってきます。精神科的支援においては、医師と患者の間の「価値」が違うことや権威の勾配があることは、治療そのものに大きく影響します(良いとか悪いとかではなく)が、双方で認識・共有されにくいことでもあります。この価値相違と権威勾配は、経験者(スーパーバイザー)と初心者(スーパーバイジ ー)の間にも生じます。さらには、これらが相互作用して、なかなかクライエントとの間に関係を構築できないスーパーバイジーに対して、スーパーバイザーのこころの中に否定的な感情が生じたり、それがさらにスーパーバイザー自身の価値や対人関係のあり方を反映している可能性すらあります。そしてスーパーバイザーの発言は、異議申し立てのできない絶対的なものとしてスーパーバイジーに伝わりやすく、一方でスーパーバイジーは、個人の価値観を押し殺し、所属組織のルールにもしたがってクライエントと会っていかねばなりません。スーパービジョンにおいて、スーパーバイジーがスーパーバイザーに料金を支払うべきかどうかという設定の議論においても、この関係性を踏まえる必要があるでしょう。
 私たちがTPAR を設計するときに、スーパーバイザーとスーパーバイジーの間をつなぐチュ ーターをおいたのですが、実務的な意義ばかりでなく、価値相違と権威勾配の調整役という倫理的役割の方がより大切だったのかもしれない、と気づかされます。
 スーパービジョンの実際を他の専門職の役に立てるために公開しようとする際、スーパーバイジーがスーパーバイザーにスーパービジョンを受けようと思うケースであればあるほど、クライエント本人と本人を取り巻く関係者、治療者との間にも複雑で力動的な関係が生じており、公開への同意が得られにくかったり、得ようとする行為自体が関係を変化させる可能性があるという倫理的ジレンマがあります。ケースの報告でも当然クライエントの同意が必要ですが、スーパービジョン内容の公開におけるクライエントの同意という問題は、さらに複雑な課題となってきます。
 チューターを務めた熊倉陽介がスーパービジョンの帰り道に考えたこと、私が本書を出版した後で考えたことは、TPAR をスーパーバイザーの方々や教室の仲間と計画した際には十分意識化できていなかった、「精神療法トレーニングの社会学」という新たな問いでした。(笠井清登)

 

タイトル:精神療法トレーニングガイド
著者:藤山直樹、津川律子、堀越勝、池田暁史、笠井清登
出版社:日本評論社